新潟 水俣 病。 新潟水俣病に関するトピックス:朝日新聞デジタル

新潟水俣病の概要 新潟市

一方でこの間,認定を棄却された患者および新たな申請者合わせて232人が国と昭和電工を相手取り,第2次訴訟を起こした。 かえって生活苦が増したとの被害者からの声が相次いでおり、有識者からは「実情に合わない制度である」として問題視する意見が多い。 このメチル水銀は一部では農薬として使用されますが、ほとんど使用用途がありません。 1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、 新潟水俣病と呼ばれる。 劇症型患者の場合、直接の死因としては、大人では食物の誤嚥によって引き起こされる(嚥下性肺炎)が多く、幼児及び胎児性患者ではによるショック死、食物をのどに詰まらせたことによる窒息死が多く見られた。 1974年:5歳で水俣病に冒され、18年間危篤状態だった女性が死亡。

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第二水俣病

1990年12月5日、水俣病裁判の国側の責任者として、和解拒否の弁明を続けていた環境庁企画調整局長が自殺• チッソ(会社の名前)はビニールづくりに必要な原料であるアセトアルデビドを生産する工場でした。 1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。 当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。 ろくに魚も食べんのに水俣病になった人やら、四十年になった水俣に越してきた人やらが、〝水俣病や、水俣病や〟言うて・・・・。 ただし、同物質による公害によって引き起こされた、すなわち公害病と認定された場合は特に「水俣病」(: Minamata disease)と呼ばれる。 会議では、原告団と新潟水俣病共闘会議が一体となって、昭和電工と国に対して水俣病の全被害者の救済を内容とする水俣病問題の全面解決を求めることや、訴訟を通じて、現在の認定制度とは異なる水俣病被害者の全員救済につながる司法救済制度の確立をめざすことを確認しました。 昭和電工の工場が排出したメチル水銀に汚染された魚介類を食べたことが原因で、特徴的な症状は手足の感覚障害や運動機能低下など。

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新潟水俣病第5次訴訟が6年を迎えるなか、早期救済を訴える街宣が新潟市中央区で開催

劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には、軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。 新潟水俣病(第二水俣病) 昭和40年(1965年) 栃木県、福島県を源水として日本海に流れる阿賀野川は新潟の重要な交易路として栄えていた。 その川の流れは農業の灌漑用水として、また豊富な水産資源として広く活用されていて、新潟の人々の食卓にもサケやマスなどの川魚が並んでいたといいます。 人体では、メチル水銀自体は比較的排泄されやすい化学物質の一つであるが、中枢神経系などに入り込みやすく、胎盤を通過しやすいという化学的な性質を有しており、その毒性作用は神経細胞に生じた障害によるものである。 四日市ぜんそくの患者は、工場側と市・国から補償を受けることができました。 水上勉 - 『海の牙』1960年(『不知火海沿岸』を大幅に加筆し改題)• 工場ではこの残渣プールに排水を送り、沈殿物を除去してから水俣川河口に放出するようにしていた [ ]。 その後は、1968年に水俣工場でのアセトアルデヒド生産が停止されるまで、排出先が水俣川河口に変更された。

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新潟県立環境と人間のふれあい館~新潟水俣病資料館~

その後、水俣病公式確認から50年目に当たる2006年4月30日、水俣湾親水護岸に水俣病慰霊の碑が建立された。 その後、13年の歳月(さいげつ)と485億円というたくさんのお金をかけて水俣湾は埋め立てられ、水俣病の被害は止まりました。 ただし、環境中に排出された無機水銀が環境中でされ、生物濃縮をしている例が世界各地で確認されているため、水銀汚染の公害病の議論の中でこれらが水俣病と共に語られることがある。 (公健法)による水俣病の認定は、国()の認定基準にしたがって、国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県および新潟市が行う。 2001年:水俣病事件で国・熊本県の責任を認める初の高裁判決が下り、チッソに対する除斥期間経過も撤回した。 朝日新聞紙面に掲載されている用語解説から関連するものをお届けします• そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在の)水俣工場が、の生産に触媒として使用した無機水銀()から発生したとするメチル水銀である [ ]。 ところがこの公害病は、阿賀野川流域の人々にとって深刻な被害をもたらすことになったのです。

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新潟水俣病第5次訴訟が6年を迎えるなか、早期救済を訴える街宣が新潟市中央区で開催

2007年:水俣病関西訴訟の81歳女性が認定求め提訴。 被害者の多くは出産の経験がある中高年の女性でしたが、男性の被害者もいました。 後日、医師(に帰郷していた)を訪ね確約のうえ、1963年3月と10月の『技術史研究』誌上にて、富田八郎(とんだやろう)の筆名で「水俣病 1 , 2 」を発表した。 75-79, :• そのため、誤解はなかなかとけず、具合が悪くても差別を恐れ水俣病と言い出せない状況になってしまいました。 同年11月12日には食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であるとに答申したが、その発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話を残すに留まり、直接答申者である調査会の「水俣食中毒特別部会」は翌13日に解散させられた。

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新潟県立環境と人間のふれあい館~新潟水俣病資料館~

市から市のお金で公害患者に対して支援を行ったというのは、それまでに例がなかったので、この試みは全国初でした。 このうち、 およそ450人以上が亡くなったとされており、また認定されていない人などを含めると、患者数はおよそ 3800人にのぼると言われています。 1949年頃:水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。 このメチル水銀濃度の高い川魚を漁獲して食べた人が有機水銀中毒の症状を起こすことになった。 調査が進むにつれ、患者の発生地区では「食べた川魚の量と毛髪中のメチル水銀の量が明らかに比例すること」がわかった。

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水俣病について

水俣市はチッソによって発展した、いわゆるである。 仲の良かった地域のきずなを壊し、人々の間に埋めがたい深い溝を生み出してしまいました。 四大公害裁判の始まりである。 2010年4月16日:水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法の救済措置の方針を閣議決定。 しかし、この数はあくまで水俣病と認定された人の数で、実際に被害を受けたけど、認定されていない人を含めると、 患者数はおよそ10万人以上にのぼり、亡くなった人も4万人を超すとも言われています。 水俣病と認められなかった被害者の人たちは、「なぜ水俣病と認められないのか」と各地で裁判を起こし、2004年には最高裁判決で認定審査会より緩やかな基準でも水俣病と認める裁判所の判断が確定しました。 女児は1956年3月15日に死亡し、後に「水俣病公式認定患者第1号」に認定された。

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新潟水俣病の概要 新潟市

最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0. 事件の舞台を水潟市とし、新潟水俣病の発生を予見している)• 婦人の長い髪に含まれる有機水銀の量を分析した結果、新潟地震以前の毛髪部分からも正常値を超える水銀が検出された。 1971年9月に原告側が勝訴,1983年6月,要求を全面的に獲得した〈新潟水俣病に関する協定書〉に調印した。 熊本水俣病の発生から9年後だったにもかかわらず、原因不明の伝染病だと風評が立ち、祟りや呪いとまで噂されました。 一方で、若い頃に健康であった者が、加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。 1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。

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